まだ、生きてますので。


でも、ぼくのこころはまだ「死」という別離を許容してはいない。
もう、いやなんだよ、もう。大切を失うのは。それが「死」という、生きるものとして抗うことのできないものであっても。

近親者でいえば中3のときの母方の祖母を皮切りに、両祖父母、母親の兄、父親。
母親の兄だって急逝で朝になったら亡くなっていただし、父親も作業中の転落事故であっという間のものだから看取る間も覚悟する間もなかった。

ぼくが無差別に愛してやまない猫にいたっては、もうぼくひとりの指の数じゃ足らない。両足を含めても。
子供の頃は素直に泣けたからまだいい。そしてパソ通を始めてからはそこに吐き出させてくれていたし、そこで友達も色々と声を掛けてくれたからまだまし。辛くはあるけど。まあ、マイのことはそれでもトラウマだから除くけどね。でも猫との別離が集中した期間は両方の間、素直に泣けもしないし、ほんと一人で、こころの拠り所は猫だけだったころ。その期間は苦しくても泣けるのは猫と二人っきりのときだけだったし、吐き出すところもなかったから。

だからもう、それが「死」というものであってもイヤなの。
生き物に「誕生」と、どんな形かは別として「死」いうもののある意味も判っているつもりだよ。種として存続していくためのものとして、頭ではね。
ただそれでも許容できない。

これがぼくの色々なモノが重い所以だとも思う。

そのくせ、(言葉はよくないけど)「大切」をつくるときに、その死別の覚悟は、頭、こころの片隅にもありはしない。
それを繰り返しているんだもの。バカだよね。
それに、そんなに怖いなら辛いなら悲しいなら、初めから「大切」をつくらなければいいのにさ。


それが今回はかなり微妙なところで内面のバランスをとって保っていたところにきたから、棺の中の故人のお顔を見たときにバランスは一気に崩れてこころの堰は決壊した。
本当にもう、いやだった。
もう、世を捨てても、ここもTwitterもFacebookもmixiも全部捨ててまたパソ通を始める前に戻ってもいいとも、思った。そうすれば、しばらくは辛くても、もう「大切」を失うことも、、、ううん、失う「大切」もなくなるから。
昨日は自宅に着いて一つのメッセージを送信したあと、すぐに灯りを消して、布団に潜って、丸くなって泣いているしかできなかった。いつもなら電源を入れたまま枕元に置いているスマホの電源も切って。眠れないと思っていたのが、何時頃からかは分からないけど眠れたのが幸いだけど。


それでもここまで戻ってくることができたのは、失うのが怖くて辛くて悲しくてたまらない「大切」がいてくれたから。
それなのにあのひとには、そのかただって辛いはずなのに、それでも、、、それでも頑張って、懸命に、こころを込めて言葉を紡いでくれたのに、「無理」と言ってしまった。なんて謝ればいいんだろ。大切な大切なひとなのに。


あ、まだ会話は成立できないと思うので、コメント欄とトラックバックは閉じています。そして巡回もしていません。
これもごめんなさい。 

written by かずちゃん(kazucy_i)かずちゃん